最新のIT業界の動向・政策などの情報を発信

アクセス数

ページビューを調べる
新規登録  ログイン

ページビューを調べる

アクセス数

PAGE TOP

人物列伝

【墓碑銘】園山裕三(そのやま・ゆうぞう)氏

2017年02月01日17:30 

元三井物産常務、元三井情報開発:現三井情報社長
1月26日、多臓器不全のため死去、92歳。

【墓碑銘】シーモア・パパート氏

2016年7月31日

マサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授で、教育用プログラミング言語「LOGO」や「LEGO MINDSTORM(レゴ マインドストーム)」、One Laptop Per Child(OLPC)によるいわゆる“100ドルPC”の開発、人工知能(AI)研究、MIT Media Lab創設などの業績で知られるSeymour Papert氏が2016年7月31日、米国メイン州の自宅で死去した。88歳だった。

【墓碑銘】ジョン・エレンビー氏 1941年1月9日〜2016年8月17日

2016年08月30日09:01

【シリコンバレー時事】「ノートパソコンの父」と呼ばれる英国出身の技術者ジョン・エレンビー氏が17日、米サンフランシスコで死去した。75歳だった。ニューヨーク・タイムズ紙などが29日までに伝えた。
 1979年に米コンピューター開発会社グリッド・システムズを創業。折り畳んで持ち運べるパソコン「コンパス」を開発し、82年に発売した。米航空宇宙局(NASA)など政府機関に導入され、現在のノートパソコンの原型となった。
 また、拡張現実(AR)技術の研究開発のため、91年に米ベンチャー企業ジオベクターを創業。ARはスマートフォンゲーム「ポケモンGO(ゴー)」のヒットにつながるなど、今後の市場拡大が期待されている。(2016/08/30-09:01)

日本IT書紀列伝「平松守彦」その1

2016年08月23日15:30

 さて、平松守彦のことである。
 この人物についてはゆるゆると書く。
 1924年3月、大分市に生まれた。
 日本経済新聞のコラム〔私の履歴書〕に平松が登場したのは-1992年6月1日から1か月、都合29回の連載だった。
 その2回目は
 ――大分をなぜ「おおいた」と読むか。
 という問いかけで始まっている。
 続けて平松は、
 ――「分」は昔「きだ」と読み、きざむの意味。古来地形が複雑で田んぼが広く細分化されていたので「大分」(おおきだ)というのがもっともらしい説だ。
 という答えを披露している。いかにもこの人物らしい。

【墓碑銘】平松守彦氏 1924年3月12日〜2016年8月21日

2016年08月23日12:15

 大分県知事を6期24年務め、地域おこしの先駆的な取り組みとして注目された「一村一品運動」や、先端技術産業の集積などを進めた前知事の平松守彦(ひらまつ・もりひこ)氏が21日に亡くなったことが、関係者の話で分かった。92歳だった。

【墓碑銘】秋草直之氏

2016年06月24日07:45

当社元社長・会長・現顧問 秋草 直之につきましては、急性心不全のため、6月18日逝去いたしましたので、ここに謹んでお知らせいたします。
なお、お別れの会につきまして、以下のとおり執り行う予定ですので、あわせてお知らせいたします。

氏名 : 秋草 直之(あきくさ なおゆき)
富士通株式会社 顧問
富士通株式会社 元代表取締役社長
富士通株式会社 元代表取締役会長
享年 : 77歳(1938年12月12日生)
逝去日 : 2016年6月18日(土曜日) 急性心不全のため
告別式は、密葬にてすでに執り行われました。
以下の通り富士通株式会社主催のお別れの会を開催いたします。

1. 喪主 : ご令室 秋草 杏子(あきくさ きょうこ)様
2. 日時 : 2016年7月29日(金曜日)12時~13時
3. 場所 : 帝国ホテル 本館2階「孔雀の間」
(東京都千代田区内幸町1丁目1番1号 電話:03-3504-1111)
*ご都合のよい時間に平服にてご来臨願います。
なお誠に勝手ながら、ご香典、ご供花、ご供物、ご弔電は固くご辞退申し上げます。
4. お問い合わせ先 : 富士通株式会社 秘書室(電話:03-6252-2021)
以上

【墓碑銘】片貝孝夫氏

2016年02月04日

片貝孝夫(かたがい・たかお)氏 2016年2月1日、69歳。

服部 正(はっとり・まこと)1926.12~1983.1

2010年3月1日

 服部正。
 作曲家に同姓同名の著名人がいるが、この人物の場合は、「正」と書いて〔まこと〕と読む。建築設計と構造解析で多くの論文を残しているのだが、ITの世界でいえばまさに「ソフトに賭けた人」ということになるであろう。

ビル・トッテン

2010年04月01日

佐藤雄二朗(さとう・ゆうじろう)1933.2~2010.3.4

2010年03月06日

 立教大学を出て吉澤会計機に入りUNIVAC電子計算機の営業マンとなった。金融営業部門を統括し、富士銀行をめぐる日本IBMとの戦いに敗れたあと大阪支店長となり、日本ユニバックの営業を立て直した。1992年に独立しアルゴ21を設立、東京証券取引所1部上場を果たした。情報サービス産業協会会長。経済産業省のシステムインテグレーション登録制度や、情報処理技術者試験を多国間で相互認証する仕組みなど、SIerの地位向上や国際的に通用する人材育成に尽力。こうした功績が評価され2005年11月に藍綬褒章を授与されている。

野﨑克己(のざき・かつみ)1928.11.1~2004.4.28

2010年03月03日

 昭和3(1928)年11月1日東京に生まれ、昭和26(1951)年3月 立教大学経済学部経営学科卒。昭和38(1963)年2月東京都港区神谷町に株式会社東京データーセンター(現:TDCソフトウェアエンジニアリング株式会社)を設立。昭和48(1973)年10月通商産業省産業構造審議会情報化保険制度委員会委員、昭和52(1977)年6月協同システム開発株式会社取締役、昭和57(1982)年12月情報処理産業厚生年金基金理事平成のち理事長を務めた。昭和55(1980)年11月通商産業大臣表彰(情報化促進への貢献)、平成元(1989)年藍綬褒章受章(長年にわたる業界発展への功績)。

丸森隆吾(まるもり・りゅうご)1935.11.12~2011.7.12

ソフトウェア産業振興協会(ソフト協)副会長、情報サービス産業協会副会長を歴任し、2004年4月SRA代表取締役会長に就任、2006年、実兄・仲吾とともに旭日中綬章を受けた。

金岡幸二(かなおか・こうじ)1923.9.20~1993.9.2

 東京生まれ。旧姓「石坂」。1923年9月20日~1993年9月2日。東京帝国大学在学中に陸軍に徴兵され、満州・奉天航空基地に飛行生として配属された。1945年8月、特攻の命令を受けたが終戦となり、復員して再度、東京大学に入った。1949年東大工学部を卒業し東光電気、大学講師などを経て1964年「㈱富山計算センター」を設立し専務。1970年「インテック」に社名変更と同時に代表取締役社長。富山県教育委員会委員長、富山女子短期大学理事長、ちゅーりっぷテレビ社長などを兼務した。1970年社団法人日本情報センター協会の設立に尽力し、1973年通産省産業構造審議会情報産業部会委員、1982年郵政省電気通信審議会委員、1987年社団法人特別第二種電気通信事業者協会会長などを歴任した。コンピューターとネットワークの融合による総合サービスの重要性に早くから着目し、通信回線の自由化と日本電信電話公社の民営化に貢献した。

〒101-0051

東京都千代田区神田神保町1-7-12巌松堂ビル4階 株式会社アイ・アイ・エス内

E-mail:office@itkisyakai.org

itkisyakai.orgに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。

Copyright(c) 2004-2011 IT KISYAKAI All rights reserved.